吉田橋・稲荷歩道橋 ~橋編⑤~

⑤ 吉田橋(よしだばし) 昭和49(1974)年7月竣工
吉田の中央部にあり北原と南原をつなぐ重要な橋です。


現在、その隣に歩道橋として「稲荷歩道橋」が架けられています。


昭和23(1948)年7月の大水害により、区内は早月谷川沿いを中心に甚大な被害を受けました。吉田橋や萬(万)歳橋なども流失しました。明治以降も洪水は多かったようで、明治32(1899)年にも吉田橋は流失しています。「23水」の被災後、災害復旧対策委員会がつくられ、区内3人の村議会議員を含め上山村長を先頭に小野県知事に復旧に向けての陳情を行いました。その第一は吉田橋の復旧でした。そして、その重要性が認められ昭和26(1951)年9月トラス構造の橋が完成しました。渡り初めの写真にもあるとおり、竣工式には小野知事が出席されています。いかに橋の完成の意味が大きかったかが分かります。
その後、昭和49(1974)年吉田橋は改修され、少し上流の場所につくられました。幅員も広がり、現在に至っています。
吉田は、吉田橋を中心に発展してきました。吉田橋の北詰、南詰いずれにも商店街ができ、旅館、医院、鍛冶屋、理美容店製材所などがあり、さらに乗り合い自動車(現在の乗用車ぐらい。のちにバスに)の発着駅もあり、切符を買う人や待ち合わせる人でいつも人が多かったようです。


また、稲荷神社夏祭りの花火大会は盛大な催しで吉田橋周辺にはたくさんの屋台が立ち並び、大勢の人が繰り出し通り抜けるのが難儀なくらいだったようです。当時町(金屋町)内で花火大会があるのは金屋の十二社祭と吉田だけでした。吉田の夏祭りは青年団が中心となって催し、吉田橋から稲荷神社までの道には絵や文字を書いた灯籠を並べ、ローソクを取り換えたりして夜道のお参りができるようにしていました。だんだんと、ローソクが電球に変わり、また木枠に紙を貼った灯籠から市販の赤いプラスティック製の折畳みの提灯へと変わっていきました。青年の減少とともに、その役割も区役員(協議員会)が担い現在に至っています。

吉田橋の北詰に、現在も大きな石の道標があります。正面の中央には、「奉納四國西國秩父坂東供羪塔」とあり、並んで左に「左西ヶ峯かまたき」、右に「右高野山」と書かれています。左側面には「奉拝大日本神社仏閣」、右側面には「明治十六年未九月建立」とあります。

⑥ 稲荷歩道橋(いなりほどうきょう)平成12(2000)年3月竣工
もと吉田橋があったところ、現在の吉田橋に隣接してすぐ下流に架けられた歩道橋です。


2021年04月09日