未曾有の災害への復旧に向けては、県では災害救助法の発動、国では被害に対する特別措置法の立法化などがされ、各方面にわたって取り組みが行われることになります。県の災害救助隊の出動をはじめ、米軍の援助と飛行機の食料投下、ヘリコプターによる移送、保安隊による連絡道路の開発、食料等の移送が行われますが、交通網、通信、電気などが遮断され、多くの悪条件と戦いながらの救援活動となりました。状況が判明するに従い、山間地の被害が凄惨を極め、食料危機への対応が急がれました。有田災害救助隊では、7月21日食糧基地を湯浅町から鳥屋城村金屋に前進させ、トラックで湯浅から御霊村徳田まで運び、金屋橋は流失しているので、保安隊の鉄舟4隻と漁船や索道で有田川を渡り、更にトラックとオート三輪で尾岩坂峠を越え、岩倉村川口に急送、もう一つは吉田から伏羊まで牛車で輸送し、伏羊から人肩で岩倉村谷まで運んだとのことです。この人肩には田栖川村の青年百名、和歌山市消防団員百名、鳥屋城の全村民が協力したとのことです。そして、谷から楠本へと物資集積場が前進し、救援物資が届けられるようになりました。
今回の洪水では、山岳地帯に短時間に驚異的な大量の降雨があり、地割れが多く発生し、大量の流木などが河川流域に記録的な大惨事をもたらしました。また、下流域で降雨が少なかったため大洪水を予想しづらく、そこに突如としての大増水で災害が拡大されました。
おびただしい流木と濁流は、橋という橋を押し流し有田川では竣工直前だった田殿大橋、紀勢線有田川鉄橋、安諦橋を残し、ことごとく流失させました。
復旧、復興に向けては、日赤和歌山病院、和歌山県立医科大学、近畿各府県の日赤、大学病院、その他多くの医療関係者が49の医療班を結成し、総勢160余名が診察、治療、投薬にあたりました。災害直後に心配された伝染病の蔓延が奇跡と思われるほど最小限に防止できたのは、これらの方々の献身的な活躍によるところが大きかったようです。
さらに、災害直後から県出身者をはじめ全国からあるいは海外からも義援金、救援物資が驚くほどの多額、多量となり、県庁、各町村役場に援助物資が高く積み上げられ、絶望のどん底にあった被災者には大きな光明となり復興意欲を起こさせてくれました。
また、和歌山大学、京都大学をはじめ近畿地方の各大学の研究機関、研究者や様々な機関などが今回の災害について分析を行い、今後の災害に向けての対策に数多くの提言がされ、防災に向けての取り組みが進められていきました。
(追記)
1 県内ではこれまで数多くの災害が起きていますが、和歌山地方気象台は、大雨による主な災害として、明治22(1989)年、昭和28(1953)年、平成23年(2011)年に起きたものをあげています。
和歌山地方気象台 (jma-net.go.jp)
2 この災害を機に各河川で治水対策が図られ、二川ダムが昭和41(1966)年に建設されました。
二川ダムの歴史 | 和歌山県 (wakayama.lg.jp)
3 新吉田橋での早月谷川の今の状況は、定点カメラにより撮影されていて公開されています。
新吉田橋 監視カメラ|有田川町水位監視 (aridagawa.lg.jp)