防災 ①23水(昭和23年8月26・27日)
昭和23年8月26・27日の大水害は、吉田地区において近年最も大きな被害をもたらしたもので、のちに「23水」と呼ばれています。
和歌山縣災害史(1963:昭38)、金屋町誌(1973:昭48)、吉田区誌(1987:昭和62)などに当時の詳しい状況が書かれています。
和歌山縣災害史には、「もっとも被害がおおきかったのは、鳥屋城村吉田、長谷川・・・」と書かれ、県内でも鳥屋城村特に吉田地区が大きな被害を受けたことが記録されています。県内の被害状況は死者15、行方不明5、住家流失46、全壊10、半壊19、床上浸水1248、床下浸水5048、耕地浸水1,333ha、橋梁流失54、堤防決壊58、山崩れ50ヵ所などとなっていて、そのうち、鳥屋城村では、死者6、行方不明5、倒壊家屋20、非住家倒壊13、浸水は床上83、床下6で、田畑の半分は浸水しています。吉田地区では、死者4、住宅流出5、非住建物流失7、住宅半壊2、床上浸水50とあり、床下浸水や野水の浸水も含めるとほとんど全戸に被害が及んだものと思われます。
吉田地区の被害状況は町誌、区誌に、住宅等の持ち主の氏名を含め詳細に記載されています。町誌に掲載されている吉田橋周辺の2枚の写真は当時の甚大な被害をよく表しています。亡くなられた4人については、一家が家もろとも濁流に呑まれたもので、のちに建てられた墓石には、写真のとおりその旨が記されています。橋は、吉田橋、萬歳橋が流失し、道路の決壊、流失は、カンソ渕から上流にかけて200m、吉田橋北詰から50m、南詰から20m、山本製材所前100mなどで、農地に至っては各所で崩壊、決壊、寸断、流失というありさまで、吉田の生活機能は全く失われたという状況でした。
当時、昭和23年8月、998ヘクトパスカル(hPa)の熱帯性低気圧が朝鮮海峡を通って日本海に入ったため、数日来停滞していた前線が活発になり有田中部を中心に激しい雷雨となりました。吉田地区周辺では4、5日前から降り続いていた雨は、26日正午過ぎから大雨になり、夜半を過ぎては豪雨となり午前1時から3時頃にピークに達しました。連日の雨で地盤の弛んでいた山地一帯が崩壊し、山津波となって、狭い谷川に一気に押し寄せ、家屋や田畑を破壊しました。谷川沿岸の破壊は物凄かったようです。旧金屋町で最も被害が大きかったのは、吉田、長谷川、伏羊、早月などの地域で洪水とともに山津波や溜池の崩壊などがあり、壊滅的な被害となりました。
山崩れが大きかったのも今回の災害の特色で、戦時中の濫伐、芋飴加工の薪炭のための乱伐により山林の抱水量を減じさせたのも一因と言われています。
川沿いの人々は高い所に避難しようとしますが、夜で大雨の中(懐中電灯は1尺先も照らせなかったとの証言も)であり、またあちこちで大水が出ていて高い所へ坂道を避難するのに非常に難渋し、大回りをしてやっとたどり着いたという人も多かったようです。筆者の家は川筋より高い位置にあり、大きい鍋で炊き出しをしたという話を両親からよく聞いたものです。
被災後、役場への連絡などは道路網が寸断され大変だったようですが、上山鳥屋城村長を中心に復興に向けて動きはじめ、吉田区では東佐一郎区長のもと8名による災害復興対策委員会が結成され、村、県の支援のもと復興がされていきます。昭和26年9月には吉田橋の渡り初め式が小野県知事を迎えて行われています。(「橋 ④比曽原橋 ⑤吉田橋」の項を参照)
ところが、「23水」から5年後の昭和28年7月18日、有田川を中心に甚大な被害をもたらした「7.18大水害」が発生します。このとき、吉田地区においても、復興して間もない比曽原橋、生石橋が流失してしまいます。
(追記)佐賀県の有田町、伊万里市を流れる有田川では、昭和23年9月11日に大洪水が起きていて、「23水」と呼ばれているようです。